会津若松の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

福島県会津若松市歴史探訪
会津若松市の概要
会津若松市は、江戸時代に会津藩の城下町として栄え、筋違いの道路や蔵造りの街並みなど往時の面影を残す趣のある街です。中でも白虎隊や戊辰戦争に象徴される鶴ヶ城や飯盛山などは有名で、全国から多くの観光客が訪れています。

また、地域の取り組みとして、会津ブランドを生かした 「おもてなしの心」 によるまちづくりを展開しています。鶴ケ城など歴史あるものと会津大学など新しいものとを融合し、観光誘客と新事業の創出により経済の活性化を図ることが目的です。また、「IT特区」に認定され、ITに不可欠な英語のコミュニケーション能力を育成するため、小学校段階で「英語科」を導入し、不登校児童生徒対策にネットワークを活用するなど、教育にも力を入れています。


会津若松市のあゆみ
会津若松市の起源は、至徳元年(1384)の、蘆名直盛(あしな なおもり)による黒川城築城にさかのぼります。城下町黒川は、戦国大名・蘆名氏の領国支配の拠点として、また当時奥州最大の都市として発展を遂げました。

安土桃山時代には、伊達正宗のもとで勢力を拡大する伊達氏が芦名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地としました。しかし、ほどなく豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏は黒川を取り上げられ、代わって蒲生氏郷(がもう うじさと)が領主となりました。氏郷は楽市楽座の施行、手工業の振興、黒川城の近代城郭への改修など、さまざまな功績を残し、また黒川という地名を若松と改めました。

江戸時代に入ると、いくつかの領主を経て、寛永20年(1643)、徳川秀忠の子、保科正之(ほしな まさゆき)が領主となります。正之は会津松平家の祖となり、以後若松は会津藩の城下町として栄えました。幕末に差し掛かかると、京都守護職に就任した代9代会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は、壬生浪士組(後の新撰組)などを使い、尊王攘夷派志士などの取り締まりや京都の治安維持を行いました。しかし、そのことで長州藩をはじめとする倒幕派の恨みを買い、戊辰戦争で会津藩は攻撃の対象とされます。新政府軍は若松城下にまで侵攻し、白虎隊の自刃などの悲劇が起き、城下町の大半が灰燼に帰しました。

明治維新後、全国的な廃藩置県により若松県が設置されますが、それ以降も、市町村の市吸収合併が幾度も行われ、昭和30年(1955)の合併を機に、都市名が若松市から現在の会津若松市に改められました。

そして現在、会津若松市は、多くの人が訪れる一大観光都市として、発展し続けています。

会津若松市の名前の由来
この地名の由来は、戦国時代の武将蒲生氏郷の郷里、近江国若松の森にちなんで若松と名づけられたのが始まりです。そして太平洋戦争後、福岡県若松市(現・北九州市若松区)との混同を避けるため、会津若松と改められました。



会津若松市の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
福島県立博物館
住所: 〒965-0807
福島県会津若松市城東町1-25
[地図を見る]
電話番号: 0242-28-6000
開館時間: 9:30〜17:00
(※最終入館は16:30まで)
休館日: 毎週月曜日
祝祭日の翌日
年末年始
入館料: 一般・大学生 \260
小・中学生、高校生 無料
企画展観覧料は別に設定
展示室以外の入館は無料







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